実現できなかったパフォーマンスについて


果たして実現されるかされないかも分からないことについて書くことが妥当なのか。しかし実現できなかったからこそどこかには残されて記録されるべきなのかもしれない。それが場違いであっても。私は今韓国にいて、日本には渡れずに、そわそわしながら、できることは想像することとか空想することくらいしかない。その空想に含まれるのは予想外のできごとで、予想外なわけだから想像することすらできない。たまにふと思ったりするのだが、未来は私が想像したことなどとは全く別の、別というより想像することそのことがそもそも不可能なことが起きているだろうという、そのような想像できないままのことを想像したくなる気持ちになる。しかしそれは想像ではない。一瞬の感覚に近いことだ。あ、そういった未来があるだろうと。でも想像することはできないから、「あ、想像できない未来があるだろう」とその言葉というか、事実というか、一時的な感覚を楽しむだけだ。それは一つの感動であって、私はたまにそういった錯覚かもしれない感動を抱いたりもするけれど、どうもその感覚を言葉にすることはできない。私がそれを述べているにもかかわらず、自分でもこれじゃ思い出せない。しかし私がやろうとしていたパフォーマンスについてはそれよりは想像に近いものを想像する。その分からない未来は事実起きてしまう現実になり得るはずだったから、私は今すぐ味わうのではなく、待っていれば良かったわけだけど。でも実現できないなら想像するしかない。それは新たなフィクションであり、なので現実よりも完全であって、つまらないものになる。
私はある部屋の中に座っている。今も、実現されなかったパフォーマンスの時も。でもパフォーマンスの時は今の部屋とは違って、何もないのだ。何かあるけど、無駄はない。ほとんど部屋の外を出ないのは、今もパフォーマンスの時も同じだ。私はその両方の共通点について書くつもりはない。人は何かと何かが似ている点を用いて、あるいは実用的な論理を組み立てることで、その実効性によって生きているので、その習慣によって共通点さえあればそれが何ものかではないかと思ったり、あるいは結果無用だと思えたとしても、せめて比喩という言葉を最終手段として使いながら空っぽな=意味を与えようとする。というのも人は他ならぬ私だ。私がそういう人間であったりするからだ。他人は私だ。その他人は私だというのは確かに幼児的な発想で、私がパフォーマンスを行う際にもそういった幼児の発想をするつもりでいる。というのも、私はある部屋の中にいて、その部屋について書くのだ。部屋の中で起きていること。訪れる人。私。私は私について書きながらも、訪れる人について書く。その両者に区別はない(それこそ希望なのかもしれない。私=あなた。あるいは私があなたとの交互の行き来によって私になりうる。にもかかわらず、まるで私が最初から存在していたかのように振る舞って、そしてそのまま私=あなたの関係を守ろうとすると、世界は崩壊する。崩壊というより断絶だ。それともエラーか。そのようにして私たちは大人になる。もう取り返しはつかない)。部屋の中に閉じこもって、部屋の中を描く。壮大な想像をも所詮そんなものだ。もしかしたら所詮そんなものになったり、壮大になったりすることを繰り返すのかもしれない。目の前の私と訪れる誰かによって。そのせいで私はそこに装飾品のように座っていなければならないのだ。しかし今私は本当の自分の部屋に座っていてこれを書いているわけだから、だからこそ、ありもしない話をこのようにできるわけで、もし本当にパフォーマンスが行われる予定であればこんなことは書けないだろう。しかしもしまだ私が本当のその場に行けるとしたら、このテキストは、これはこれでいいのかもしれない。ここで私は本当のパフォーマンスという言い方をしてしまったわけだから、今のテキストに書かれるパフォーマンスは嘘のパフォーマンスになってしまう。面白いことにどちらも実現していないにもかかわらず、私はそれらを区別して想像しているのだ。馬鹿げている。実現していないの中のまだ実現していないと永遠に実現しないの違い。私はこう思う。まだ実現していないパフォーマンスはおそらく実際の場でちっぽけなものになる。ほとんどの人に捉えどころのない、意味のない、面白くもない。私はこう思う。永遠に実現しないパフォーマンスは完璧なままだ、と。そしてほっとする。日本に行けずによかった!と。そんな馬鹿な、嫌な目に会わなくても済むんだ、と。私はちっぽけなものをいくらでも膨らませて、いくらでも大きなものにして、いくらでも壮絶なものにすることができる。それこそ私がこれを書いている理由なのかもしれない。と言いつつ、ここに反映されるのはこの部屋の中の私だ。書かれるのは未来私がいると思われる部屋の中の私だ。それに実と嘘の区別はない。私はだから何かを書くことができる。じゃなければ一体何を書けばいいんだろうか。区別しつつも区別がつかない。区別しながらも区別しないこと。名前を与えながらも呼ぶ瞬間には戸惑ってしまって、白けてしまうこと。私の飼っている犬が年に数回も名前を変えて呼ばれているのもその理由なのかもしれない。一気には変わらないけど、少しずつ徐々に別の名前に。変わり続ける名前によって彼女は変わったのだろうか。幸いなことに彼女は呼ばれることに夢中で呼び名それ自体には興味がない。私の隣に彼女が入ってくる。
部屋の中に誰かが入ってくる。彼女は部屋を見渡す。そこにあるのは奥の方に人が座っていることや、その人の前のデスクにパソコンが置かれていてそれから伸びているケーブルが入口の近くの床に置かれている32インチのLCDモニターまで繋がっていること、小さいテーブルの上にA4の紙が重なって置かれていることだ。そして3人掛けのソファがそこから少し離れたところにある。白い壁や部屋全体に敷かれている公共機関でよく見るような灰色のカーペットはここが何のこだわりもない空間であることを表している。A4の重なりの最初のページのタイトルは「実現できなかったパフォーマンスについて」というタイトルだ。彼女はそこから興味が引かれた。むしろパフォーマンスではないと言われたことによって、これがパフォーマンスであることをようやく気づいたそうだ。それまでは彼女にとって奥に座っている人は未知で、未知というのもなんの驚きも感動も与えてくれないような無表情の未知であったことから少しは彼について気になり始めたのだ。そういった意識の流れまではたった数秒か数十秒の時間しかなくて、それまでに純粋に奥の彼に驚くか驚かないかはランダムな結果というほどである。なぜならそれは日常のレベルではどちらでも良いことで、その数十秒の間で何かを思わせる何かでもないからだ。その上に違和感とはあまり確かではない上に違和感と呼べるのだろう。気づきというのは常に結果に過ぎない。その「実現できなかったパフォーマンスについて」の出だしはこうだ「果たして実現されるかされないかも分からないことについて書くことが妥当なのか。しかし実現できなかったからこそどこかには残されて記録されるべきなのかもしれない。それが場違いであっても。実現できなかったものはどこに置かれてもそれは場違いでしかない。」その時にぼうっと座っているだけだと思っていた奥の彼の手が動き始めることが見えた。ガタガタという音と共に。聞き慣れている音である。キーボードを叩く音。でもこの静寂の中では一瞬何か別の音、特定できない何かの音がいきなり鳴っているとしか思えないような音だった。そしてモニターには文字が書かれていく。そこにはこう書かれた「誰かが入って来た。彼女は、というのもおそらく女性であるはずだから、部屋の中を見渡して、私や他の事物を数秒間観察した後、」いきなりはじまった彼の手つきと連動した音の鳴り響きはそれくらいの分量とそれくらいの時間を持続したまま、また停止した。しかし奥の彼が単に静止状態であるだけでなく、何かを考えていること、それ以上に彼女にとって大事なのは彼女を見ているという事実なんだろう。それから奥の彼はしばらく何も書かなくなってしまったので、彼女はA4のテキストの方に再び目を向ける。「それが場違いであっても。実現できなかったものはどこに置かれてもそれは場違いでしかない。しかしそういった間違いこそ、そういった事故こそ私は待ち望んでいたはずではないか。」この時間の中で、時系列としては彼女の目線はA4のテキストの内容と奥の彼とモニターの言葉との間で絶えず行き来しているのだが、私はここでそういった彼女の時間の流れを無視してA4に書かれているテキストや奥の彼の言葉を改めて構成して見せることにする。しかし彼女の中ではその行き来こそが重要であって、それは私たちには分からないことかもしれない。一方で奥の彼が何を考え、どんな行動をとるかについて部屋の中に入ってきた彼女よりは重んじて書かれないのは、彼自身を記述する機械に、彼自身が記述する機械に成り切っているからである。しかし彼の中では書いている時こそ自由であって、むしろ夕方家族と囲む暖かい食卓の方が、その時にそれぞれの顔と放される音声が、そこに反映される自分が機械に見えると思った。果たしてどちらが機械で、どちらがより人間的だと言えるのだろう。彼にとってはどちらかであることは例え話でしかないが、あてのない嫌悪感だけは例え話にならない。その時おそらく奥の彼は入ってきた彼女を見て、誰かを思い出したのだ。そして手が動く。「私や他の事物を数秒間観察した後、テキストの方に目を向ける。私は一人でいることが好きだ。いきなり誰かが入ってくるなんて、いつもびっくりしてしまう。私の実家では私の姉や私が飼っている犬がそうだ。特に今のように何かを書いている時はいっそう怖い。姉が入ってきたら私はヘッドフォンで音楽を聞いているふりをしながら、見て見ぬふりをする。無愛想な犬はなぜかこういう時こそ私に抱かれようとする。」その時、奥の彼はあまり多くのことを書いてはならない、それ以上にあまり頻繁に言葉を書いてはならない、ことに気が付く。あまりにも頻繁に言葉を書いて彼女の注意をひくと、彼女がテキストにも自分にも、どちらにもいられないまま、だからその間の往来もなくなると思ったんだろう。奥の彼はタイミングを見計らって、そして彼女になったつもりで時間と空間を感じながら、同時に何を書けばいいのか考える。一番望ましいのは彼女が奥の彼の方に振り向いた瞬間に彼が何かを書くことだ。それをある種のコミュニケーションと呼ぶべきか、彼という機械に対するスイッチと呼ぶべきか。私はそれを愛だと呼ぶことにした。本当の愛とは紛らわしいのでカタカナで「アイ」と呼んでもいいのかもしれない。この続きをいっそ愛の物語にしてはどうか。私はそんなことを考えながらこのテキストの続きを、ある作品のことを考え始めた。残念ながらそれは愛の物語ではない。「部屋の中」という演劇だ。その作品のカタログにまたこのテキスト「実現できなかったパフォーマンスについて」が載る。「部屋の中」がこのテキストを元に作られる演劇であることを言い訳にして。しかし実現できなかったからこそどこかには残されて記録されるべきではないか。それが場違いであっても。そう、「部屋の中」はこのテキストを元に作られる演劇である。ただそこに奥の彼はいない。ある部屋があって、最初誰かそこに入ると、段ボールや国際郵便で送られた書類がある。キャプションに書かれた指示に従って、段ボールから椅子を取り出し、並べる。たった三つの椅子だ。郵便物の中には同じテキストが三つ入っていて、それには「部屋の中」というタイトルがついている。最初のページ。そこには彼がなぜここにいないのかの話や、私にパフォーマンスを頼むという願いが書かれていた。次のページ。振り付けと言いながら、そこに書かれているのは「テキストを読む」、「誰か入ってくることを待つ 」とか「他の人の顔を見る 」などの調子だ。そしてまたもその次のページ。そこに書かれるテキストはなんの意味もないと書かれていながら、部屋の様子について書かれている。おそらくそれを読みながら私は前のページに書かれていた振り付けをパフォーマンスする。そして誰か入ってくる。私はその人を見る。彼女は、というのもおそらく女性だと思われるので、席に座り同じくテキストを読み始める。しかしいったいこの部屋にいる私という人物は誰なんだろう。今のどころ私でしかない。でも実際そこにいる/いたのは明らかに私ではない。実際は私だけがそこにいないのだ。残念ながら。だから特に言えることもないけれど。

2021年11月-12月